アナタハン女王事件は小説『東京島』でも
モデルにもなった実際の事件。

事件当時、この衝撃的なニュースは日本だけでなく
海外でも話題となりアナタハンブームが起こった。

今回はそんなアナタハン女王事件を紹介します。


アナタハン女王事件とは

太平洋戦争中の南海の孤島アナタハン島で
1人の女性と32人の兵隊らが置き去りにされ、
飢餓と孤独にさいなまれながら、
日本の敗戦を知らず六年間もジャングル生活を続けた。

その間、1匹の女王蜂をめぐって
壮絶なまでの生と性の闘いがくり広げられ、
12人が殺されたり、死んでいったという
謎と猟奇に包まれた事件であった。

アナタハン島事件での唯一の女性

1950年6月28日、1人の女性が米海軍のカッター
ミス・スージー号に救助された。

この女性は沖縄出身のK子さん(当時27歳)という名前で
マリアナ群島のアナタハン島で暮らしていた。

落下傘の布で作ったブラウスと
兵隊のズボンを縫い縮めたのものを着ていた。

1939年、まだ16歳だったK子さんは、
南洋にいた兄を頼ってサイパンへ渡った。

しばらく、そこで暮らした後、マリアナ群島のパガン島に移り、
カフェで女給をしていた。

その島で南洋興発会社が経営するコプラ栽培園の
労務監督をしていた沖縄出身の青年Sさん(当時25歳)と出会う。

2人は結婚し、1944年にSさんの転勤の都合で
サイパン北方のアナタハン島に移った。

Sさんはこの島で上司について
ヤシ林の経営をすることになったのだが、
しばらくしてパガン島に残してきた妹を
迎えに行くために島を出ていった。

その頃サイパン攻撃が開始され、
彼の消息はそれきり途絶える。

当時のアナタハン島の人口はわずか47名。

原住民であるカナカ人45人と、
K子さんとSさんの上司である農園技師・Hさんだけだった。

Sさんが島を出ていってからのK子さんは
このHさんと主に行動を共にすることになった。

Hさんにもサイパンに妻子がいたが、
2人はやがて夫婦生活を始めた。

女と31人の男

1944年6月頃、日本人と見られる31人の男がこの島に泳ぎついてきた。

彼らは日本軍用船に乗っていた陸海軍の軍人・軍属らしく、
乗っていた船ごとにわかれて生活を始めた。

そのうちに米兵が島を訪れ、原住民達をすべて連れて行ってしまう。

島内には日本人だけが残されることになった。
1945年8月、戦争は終わった。

しかしアナタハンにいる彼らにそのことを知る術はない。

謎と猟奇に包まれた事件が起きる

島内にはパパイヤ、バナナなどの果物が自生していたほか、
ヤシガニやタロイモがあり、食べる物には困らなかった。

最も大事な飲料水も漂着したアメリカ製のドラム缶に
雨水をためることで確保に成功した。

食欲が満たされると、次は性欲である。

女はK子さん1人なのだから、
当然男達はK子さんをギラギラするような目で見ていたが、
礼節はわきまえているらしく、
誰かが襲うということはなかった。

ある日、K子さんはHさんと結婚式をあげた。

最年長だった男が、

「夫婦のように装ってくれ」

と頼んだからだった。

K子さんとHさんが皆の了解の元でくっついてくれたら、
他の男もあきらめがつく、と言うのである。

1946年8月、島の山中でB29の残骸が発見された。

その近くから4丁の拳銃を発見されていたが、
壊れて使い物にならなかった。

2人の男がそれを組み立て直し、
2丁の拳銃を完成させた。

拳銃は作り上げたその男たちのものとなったが、
このことが集団の雰囲気を微妙に変えさせた。

男たちはまずもともと仲の悪かった1人を射殺した。

この小さな島で拳銃という凶器を手にした2人は
絶対的な力を持つようになった。

自動的にK子さんはその2人の男の妻になることとなったのだが、
彼らは仲間割れを起こし、1人は殺害された。

その後、会議でK子さんの夫となる男を決めよう
ということになったのだが、うまくいかなかった。

不穏の元である拳銃がピストルが海へ捨てられたりもしたが、
K子さんと親しかったり、狙っていた男が1人、
また1人と行方不明になったり、
殺されていったのである。

最終的に男は19人しかいなくなった。
病死などもあっただろうが、7人は殺害されていたという。

死亡した者の中にはHさんもいた。

元々アナタハンにいたカナカ人たちにより、
米軍には島に日本人が残存していることが伝えられていた。

米軍はビラをまいたり、
小舟からスピーカーで戦争が終わったことを知らせたが、
日本人は敵の罠と考えてこれを信用しなかった。

いつまでも続きそうな集団生活のなかで、
男たちからある意見が出た。

「あの女がいると今後も誰かが殺される。あの女を消してしまえ」

そのことをK子さんに伝えに行った男性がいた。

殺されることを恐れたK子さんは逃亡し、
ジャングル内を逃げ歩いた。

33日後、沖にアメリカ船を見つけ、
椰子の木にのぼってパラシュートの布をふって救助されたのだった。

K子さんはサイパンで1ヶ月、グアムで8日間過ごし、
ようやく飛行機で日本に戻ることができた。

一方、アナタハン島に残った男たちはどうなったのか。

K子さんの証言によって氏名などが明らかになると、
その家族からの手紙や新聞が島へ届けられた。

それでもこれを米軍の謀略と見る人が多かった。

全員が集まって、

「日本が負けたなどということを信用してはならない」

と話し合われている。

1951年6月9日、ある下士官が単独で投降した。

彼は届けられた手紙の封筒が
妻の手作りのものであると確信していた。

この男性のスピーカーによる説得活動の結果、
6月26日、ついに全員が降伏した。

米国船「ココバ号」に乗りこんだ男達は
グアムの米軍基地経由で7月26日に羽田に降り立った。

機内から富士山が見えた時、全員が泣いたという。

男達は空襲で沈んだカツオ漁船群

「兵助丸」
「あけぼの丸」
「第七海鳳丸」
「胡丸」

の乗務員・兵士らでアナタハン島にたどり着いた仲間の死については
事故死と言っていた。

しかし、証言がどうも合わず、不審な点が見られた。

アナタハン島事件の不審点

時の流れは残酷なもので
K子さんの最初の夫だったSさんは先に帰国しており、

別の女性と再婚し、2人の子の父親となっていた。
別のアナタハン生還者の男性の場合にも同様のことがあった。

その男性は妻と4人の子供たちを残していたが、
2年前に戦死との公報が入ったため、
妻は男性の8歳下の弟と再婚し彼との間に一児をもうけていた。

帰国した男性と妻、弟の間で色々相談がされ、
最善の方法がとられたのだろう、
妻は弟と離縁し、あらためて男性の妻になった。

弟との間にできた子供については養子として迎え入れた。

一人となったK子さんには興行師から声がかかり、
小さな劇場をまわる生活を始めた。

アナタハンがブームに

1952年11月、K子さんはレビュー出演のため、
「千歳丸」に乗って横浜に訪日。

そして記者会見に応じ、島内での出来事を話した。
このことに日本中が沸く。

「アナタハン」ブームとなり、
K子さんは「アナタハンの女王」と称され、
ブロマイドなどが売れた。

またアナタハンという言葉も流行語となり、
しばらくご無沙汰になった時などに

「長い間アナタハンにしていまして・・・」

などと使われたという。

K子さんはその後、事件をモデルにした芝居に出演したり、
やがてストリッパーに転じたりしていたが、
ブームが終わった頃、故郷の沖縄に戻って
「アナタハン」という小さな食堂を開いた。

2人の子がいる男性と再婚し、平穏な生活を取り戻した。

夫と死別した後はたこ焼屋をやっていたが、
1972年に脳腫瘍のため死去した。享年50。

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