日航機事故・機長の娘が思いを語る
父から受け継いだ強い信念に胸が熱くなる…



520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から
30年以上経ちました。

墜落した飛行機の機長の娘が事故の遺族でありながら
機長の家族という複雑な思いを語りました。

日航機事故・機長の娘が思いを語る

「唯一、コックピットの中にいる父ってこの写真しかないんですよね。
なので、こんなボロボロになってしまったんですが」(機長の長女・高濱洋子さん)

色褪せた1枚の写真。
写っているのは墜落した日航機の機長だった高濱雅己(当時・49歳)。

「123便、アンコントローラブル(操縦不能)」

「これはダメかもわからんね。」(機長)

「父は機長だったのでご遺族の方に対して
私たちも遺族ですということは思っていません。」

1985年8月12日、
群馬県の御巣鷹の尾根に日本航空のジャンボ機が墜落
520人が犠牲になりました。

洋子さんは今、
父と同じ日本航空の客室乗務員として働いています

「父の代わりに空の安全を守っていきたい。
そういう思いでCA(客室乗務員)になりました。

日本航空に入社したのは事故の3年後。
父の思いを引き継ぎたかったと言います。

飛行機の着陸前、洋子さんはいつも左胸に手を当てます。
ポケットに入っているのは父がつけていた4本線の機長の印。

「これを持っていることで父が必ず守ってくれるだろうと」

パイロットの父と客室乗務員の母との間に生まれ育った洋子さん。

事故の前夜、家族のアルバムをじっくり見る父の姿を見たと言います。

「そういう父の姿は初めてだったのでとても印象に残っています。」

そして、事故当日、何気なく交わした一言が父との最後の会話となりました。

「まさかその時、事故にあうとは思っていなかったので
『行ってきます、じゃあね』と言って、私は家を出ました。」

ボイスレコーダーの肉声

「パワーフラップ」(機長)
「上げてます」(機関士)
「あたま(機首)上げろ」(機長)

ボイスレコーダーに残された父の肉声。
午後6時12分に羽田を離陸し、
大阪に向かった日本航空123便は突如、操縦不能に陥りました。

ちょうどその頃

「私がちょうど転びまして、靴ひもが切れたんです。
その時に心にもやっとしたものを感じました。
本当に最後まで頑張ったけれども本当に無念だっただろうと」

事故の後、機長の責任追及の声が高まり、
洋子さんら家族は人目をはばかるように父の遺体を探したと言います。

犠牲者520人中491番目。
見つかった遺体は5本の歯だけでした。

空の仕事の大切さを熟知していた父。
理由はなんであれ事故が起きたらキャプテンの責任だと
いつも話していたと言います。

「父の責任というのについては変わりなく、
ご遺族の悲しみは消えることがないのでそれはずっと私たしが背負っていかなければならない。」

今、洋子さんが父に伝えたい言葉は・・・

「(事故から)安全を守ってきました。
安心して空でゆっくりしてほしい。」

と父に報告したいと言います。

墜落した飛行機の機長の家族という立場。
しかし、父を亡くした事は遺族と同じ辛かったと思います。

それでも客室乗務員になった娘さんには
父から受け継いだ強い信念を感じます。

ネットでの反応

・高濱機長を批判する人マジありえないです。
機長が一番怖かったと俺は思う。
ありがとう高濱機長

・あの当時、ボイスレコーダーのある言葉が…クローズアップされて、
機長のバッシングが…。機長のご家族も、辛かったと思います。

・この事故は簡単に語ってはいけないけど、誰かが語り継がなくてはならない。

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