歴史上で無敵と恐れられた最強武士
一番強いのは誰?


歴史上で無敵と恐れられた最強武士

宮本武蔵

天正12年(1584年?)〜正保2年5月19日(1645年6月13日)
江戸時代初期の剣術家、兵法家。

文武に優れ二刀を用いる二天一流兵法の開祖である一方で
重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。

さらに、宮本武蔵は最強の剣豪だったと言われています。
宮本武蔵の著書、五輪書では

「21歳にして都に上り、天下の兵法者にあい、
数度の勝負を決すと言えども、勝利を得ざるということなし」

と記載があり、21歳にして負け無しだったと考えられます。
また、少なくとも29歳まで60回以上の決闘を行い、
その全てに勝利したという記載も五輪書に残されています

実は武蔵は対戦を挑むことは全然なくほぼ挑戦される側だったのです。
噂が噂を呼び、最強説が完成されていったかもしれませんね。

伝説として、吉岡一門70人と戦い勝ったとして語られることがありますが、
これは諸説あるようで多くの史料にはそれらの事実は記されていません。

柳生宗矩

柳生新陰流を興した柳生宗厳の5男として生まれ徳川家康に仕える。

関が原の合戦に参戦し、功をたてることにより
父・柳生宗厳が太閤検地の際に没収された旧領・大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功し、
さらに後の2代将軍徳川秀忠の剣術師範役となったことで
1000石加増され3000石の大身旗本となる。

柳生宗矩は活人剣を提唱したこともあってか
大阪夏の陣にて徳川秀忠のもとに迫った豊臣方の武者7人をまた熊に切り倒したという。

逸話以外に宗矩が人を切ったという記録は残っていない。
その後も剣術師範役、政治家として活躍を続け
最終的には1万2500石の大名となった。

剣豪としてここまで出世した人物は柳生宗矩の他には誰もいない

伊東一刀斎

戦国時代終期から江戸時代初期を生きた剣客。
旧名は前原弥五郎。

戦国時代の剣客で鐘捲流剣術の開祖である鐘巻自斎の弟子となり、
中条流の小太刀と鐘巻独自の中太刀の技術を学ぶ。

また、この時外田(戸田)一刀斎を名乗っていた自斎から名を譲り受け
伊東一刀斎に改名したとされる。

その後、様々な派生流派が生まれることになる一刀流剣術の開祖になったとされるが、
本人はそれを名乗ったことはないという。

弟子には後に徳川家剣術指南役となる神子上典膳(小野忠明)などがいる。

愛刀は瓶割と称される。

愛刀の呼称の由来は三島神社から貰い受けた宝刀で
盗賊7人を斬り殺したという逸話があり
その中で大瓶に隠れた最後の一人を
その瓶ごと2つに叩き切ったことからその名が付いたとされる。

塚原卜伝

日本の戦国時代の剣豪、兵法家。
父祖伝来の鹿島古流に加え、
天真正伝香取神道流を修めて鹿島新当流を開いた

39度の合戦、19度の真剣勝負に臨みながら
一度も負傷しなかったと記述されている。

生涯に斬って捨てた剣士の数は記録に残っているだけでも212人である。

上泉信綱

戦国時代の上州の武将であり、新陰流の祖である剣豪としても有名。

戦国の最強の剣豪として名高く塚原卜伝と並んで剣聖と呼ばれる。

兵法は神道流・陰流を学び、その奥義に達し陰流から奇妙を抽出し、新陰流を興した。

また、ふくろしないという割った竹を束ねたものに
獣のなめした皮を貼り付けた稽古道具を開発した。

これが現在の竹刀の原型と言われている。
これ以前は稽古でも木刀を使うのが一般的であり、
袋竹刀の導入により稽古中の大怪我や死亡事故などの問題が改善されることになる。

上州の戦国武将・長野業正の家臣として武田信玄や北条氏康と戦い、
その功績から長野十六槍と賞賛され、
また、上州一槍の感状を長野業盛より贈られたと言う。

武田信玄により長野家の居城である箕輪城が落城すると、
秀綱の武勇を惜しんだ信玄から自分に仕えるように勧められるも、
これを兵法修行を理由に固辞した。

斎藤一

沖田総司や永倉新八といった幕末最強とも言われる剣の達人に勝るとも劣らないと言われるほど、
斎藤一の強さは当時から際立っていたようです。

永倉新八は沖田と齋藤の剣の腕前を

「沖田の剣は猛者の剣」
「斎藤一の剣は無敵の剣」

と評価しています。

池田屋事件、伏見の戦い、甲州勝沼の戦いと新撰組の主だった戦闘では
常に最前線に立ち続けた斎藤一

生き残るだけでも奇跡に近い激戦の中を
彼はまるで生死など眼中にないかのように戦い続けます。

その後、会津藩に身を寄せた斎藤一は
ここでも新撰組として戦闘に加わり、会津藩降伏後も戦い続け
会津藩主の松平容保がたまらず使者を出して降伏を促す程だった。

斎藤一は剣はもとより、運や精神力、生命力も含め
類まれな強さを備えた剣客と言えそうですが、
皮肉なことに歴史は彼を明治維新における敗者の側に立たせました。

沖田総司

幕末に活躍した武士であり、新撰組一番隊組長にして
激剣師範を務め、多くの伝説とともに後世に伝えられる天才剣士です。

沖田総司については資料が少なく、不確かな部分も多いですが、
9歳ころには天然理心流の道場である試衛館の内弟子となり、
後に真選組組長となる近藤勇と同門となる。

若くして試衛館の塾頭を務め、
近藤らとともに出稽古に出かけていたとされる記録が残っている。

1863年ころ、浪士組結成にあたり、京に上る。
その後、近藤らに従い、一番隊組長となる。

一番隊は剛剣揃いの新撰組にあって常に重要な役割を果たし、
芹沢鴨を初め多くの要人暗殺を手がけたことでも有名。

1864年、有名な池田屋事件においても土方らとともに
先陣を切って切り込んだが悪化していた重度の肺結核により
戦闘中に喀血し、病気療養のために戦線を離脱したとされている。

幼くして剣の才能を見せていた沖田は
天然理心流の他にも北辰一刀流の免許皆伝を得ていたとされ
竹刀を持った稽古では土方歳三を初めとする新撰組の猛者たちや
師匠である近藤勇までも子供扱いしていたという。

その剛剣は猛者の剣とも形容され
得意技とされている三段突きは
一度の踏み込みで3度の突きを繰り出すという
凄まじく殺傷力の高い技であったと伝えられている。

ネットでの反応

・新選組がらみでは、池田屋で永倉とともに最も長く闘いながら
その刀に刃こぼれひとつ残さなかった近藤、
油小路で新選組隊士数十名に囲まれて憤死した服部武雄にも最強説あり。

・剣豪に武運は関係無いかと思うが、武運が必要なら宮本武蔵は入らないな。

・俺ら現代人はつい時代劇のチャンバラが頭に浮かんじゃうけど、
刀で受けたりなんだりは刃こぼれや折れが恐い。

一刀で斬り捨てるのが合理的、自分の刀が早く届けば他はなんだっていい、
小手先の技なんぞ糞っくらえ…って感じに特化した示現流は
実戦剣法で最強候補に挙がっていい。

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