阿部定事件の全貌…
猟奇的すぎて狂気の沙汰を感じてしまう…
阿部定事件
仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に
東京市荒川区尾久の待合で性交中に愛人の男性を扼殺し、
局部を切り取った事件。
今から80年ほど前に起きた事件ですが、
事件の内容からドラマや映画のモチーフにされる事が多く
名前だけでも聞いた事がある人も多いかもしれません。
この事件がここまで広まったのは
その特殊な殺害方法だったからです。
首絞めは昔からありましたが、
局部が切り取られる事件は初めてだったため
マスコミが大々的に報道しました。
かなり熱狂的で阿部定パニックと呼ばれていたほど。
昭和11年の三大事件の一つとして挙げられています。
殺害の動機
5月18日、早朝6時ごろ、
阿部定は寝ている吉蔵の首にヒモを巻きつけ、
思いきり絞め上げました。
途中で吉蔵が目を覚ましたものの、
そのまま力を緩(ゆる)めることなく、
阿部は吉蔵の息の根を止めた。
だが、
殺しただけではまだ吉蔵は
自分のものになったとは言えない。
あの部分を自分のものにしてしまいたい。
誰にも触らせたくない・・・
そう考えた阿部は予め額縁の後ろに隠しておいた
包丁を取り出し、吉蔵の男性性器を切断した。
阿部は切り取った男性器を大事にしまい込み、
吉蔵の左の太股に「定 吉二人」と血を指につけて書いた。
また、布団の敷布にも「定 吉二人きり」と同じく血で書き
左腕には「定」という文字を包丁で刻んだ。
そして、女中が吉蔵の遺体を発見し、事件は発覚する。
阿部は逮捕されると
「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。
私達は正式な夫婦ではなかったので
石田は他の女性から抱きしめられることもできた。私は彼を殺せば他のどんな女性も
二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した…」
なぜ石田の性器を切断したかは
「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。
いつも彼の側にいるためにそれを持っていきたかった」
と供述している。
逮捕されてからも阿部定の人気は凄かったそうです。
世間を騒がせたせいなのか、
結婚の申し込みの手紙が400通以上舞い込み、
カフェや映画会社からのスカウトも来たそうです。
出所後は消息不明
1941(昭和16)年5月17日、恩赦により、
阿部定は栃木刑務所を模範囚として出所。
警察官たちの手により、特別に変名の配給書類が手配されました。
栃木刑務所を出所後は、ドサ回りの役者、女中、
浅草の小料理屋の経営を経て、
1971(昭和46)年に千葉県市原市のホテルに勤務している姿が
確認されているが、それ以降の消息はわかっていません。
その間、阿部定は静岡県身延山久遠寺に男の永代供養を申し出ている。
毎年、男の命日にはきまってきれいな花が届けられていたが、
1987(昭和62)年以降はその献花も届かなくなったという。
さらにその後は「熱海に移り住んだのではないか」
という噂が流れたこともあったが、正確な行方はわかっていません。
もしも彼女が生きていれば110歳以上。
生存している可能性は低いでしょう。