焼き場で立つ少年が背中に背負っていたのは…
戦争の悲惨さを改めて感じさせるものだった…
焼き場で立つ少年が背中に背負っていたのは・・・
この写真は原爆が落とされてまもなくの
1945年9月廃墟の長崎で写されたもの。
終戦直後の長崎でこの写真を撮影したのは「ジョー・オダネル」。
ジョー・オダネルは生っ粋のアメリカ人で
若い時からアメリカ海軍に属し対日戦に参戦し、
戦争終結と同時に原爆投下すぐの長崎に派遣され、
写した写真がこの写真だったとのこと。
「ざまあみろ!ジャップめ!」
「ようやくこれでアメリカに帰ることができる」
そう思っていた矢先、
ジョー・オダネルは敗戦直後の日本の調査を行う事を命ぜられる。
その後、ジョー・オダネルら一行は
敗戦後の日本へ上陸してくるのであるが、
そこでジョー・オダネルらが見たものは
自分たちが想像していたような日本人たちではなかった。
自分たちアメリカの攻撃によって徹底的に痛めつけられ、
家族・親類縁者・友人・知人を失ってもなお、
日本人はアメリカ人の自分達に対して温かく親切に接してくれるのであった。
その体験がジョー・オダネルを変えていく。
そして、そのような時に出会ったのが写真の少年である。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま広場で遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという
強い意志が感じられました。
少年は焼き場のふちまで来ると
硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか
首を後ろにのけぞらせたままです。
この少年の背中に背負われた小さな弟。
彼はすでに死んでいました。
少年の足元に「線」のようなものが見えるが
その線の前に何があるのか?
そこでは今まさに原爆や爆弾によって殺された人々の死体が焼かれていた。
つまり死体を焼く焼き場の前にこの少年は立っているのである。
この写真は戦争ですべてを失い、両親も失い、
そして最後の最後に自分自身がたった一人で守ってきた弟も死んだ、
その弟をたった一人で焼き場に「埋葬」に来た少年の写真なのである。
この少年に出会った時の事をジョー・オダネルは次のように書いている。
ジョー・オダネルが書き残した文章
焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。
小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着て裸足だった。
少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。
その子はまるで眠っているようで見たところ
体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。
係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。
まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。
炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。
私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢でじっと前を見続けた。
一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。
軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないままただもう一度シャッターを切った。
急に彼は回れ右をすると
背筋をぴんと張りまっすぐ前を見て歩み去った。
一度もうしろを振り向かないまま。
係員によると少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。
その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと
まるで妖気が立ち登るように死臭があたりにただよった。
今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。
あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。
この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、
私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。
アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。
直立不動の姿勢で何の感情も見せず、涙も流さなかった。
そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが
それもできなかった。
もし私がそうすれば、
彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。
私はなす術もなく、立ちつくしていた。
引用:https://www.youtube.com/watch?v=S0xsMPGVFE0
ネットでの反応
・こんな沢山の犠牲の上に我々の今があるって事実を忘れないようにしないいけない
・どんな時でも子供が犠牲になる・・・
・この写真の少年の目を見ていると涙がでてきます・・・