指の爪が剥がれても地面を素手で掘り続けた女性…
東京大空襲の心を打たれる悲しいエピソードが話題に…
74年前、東京の街並みは炎の海に包まれました。
昭和20(1945)年3月10日未明に発生した東京大空襲(下町大空襲)です。
上空から降り注ぐ大量の焼夷弾により、
木造住宅が密集する大都市東京はたちまちにして
業火燃え盛る地獄絵図と化しました。
東京・下町の広範囲に次々と焼夷弾が集中投下され、
逃げ惑う人々の行く手を炎を遮りました。
2時間足らずの空襲により、
約10万人の犠牲者を出した東京大空襲。
亡くなった人々の多くは兵士ではない民間人でした。
市井の人々のささやかな幸せが一夜にして焼き尽くされ、
永久に奪い去られたのでした。
空襲後、文字通り廃墟と化した東京の街並みには
いたるところに焼け焦げた犠牲者の亡骸が見られ、
あまりにおびただしい犠牲者数に火葬が追いつかず、
収容された亡骸の多くは仮埋葬されました。
上野公園や錦糸公園、隅田公園等の大きな公園に
仮埋葬された亡骸は7万2439体と言われています。
今回はそんな7万2439人のうちの一人として
仮埋葬されたある女性のエピソードを紹介します。
指の爪が剥がれても地面を素手で掘り続けた女性
「花があったら」
昭和20年3月10日の東京大空襲から三日目か、
四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。永代橋から深川木場方面の死体取り方付け作業に
従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、
一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、
焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の
異様な姿態に不審を覚えた。 頭髪が焼けこげ、
着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも
変わりはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他は
うつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、
その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。
その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、
爪は一つもなかった。その人はどこからか来て、
もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、
赤ちゃんを入れ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。私の周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。一人がそっとその場を離れ、地面にはう破裂した
ちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、
母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。 若い顔がそこに現れた。ひどい火傷を負いながらも、息のできない煙に
巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。これはいったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。だれかがいった。
「花があったらなあーー」あたりは、はるか彼方まで、
焼け野原が続いていた。私たちは、数え十九才の学徒兵であった。
引用:1970年12月29日付朝日新聞掲載より。
元学徒兵として被災処理に当たっていた須田卓雄さんの体験談
迫り来る炎に、死を覚悟した母親がせめて我が子だけでも、
と身を呈して炎から守ろうとした様子が伝わります。
子を想う母の愛、母性の究極ともいうべき行為に
心を打たれる悲しいエピソードです。
約10万人という大量の数字に「東京大空襲犠牲者」として
一括りに捉えがちになりますが、亡くなった人々
一人一人にそれぞれの物語が、人生があったのです。
日本に限らず、過去の大戦により世界各地で人々の
ささやかな日々の幸せが奪われ、尊い命が犠牲となりました。
戦争により一般の市民がいかに犠牲を被るのかという
事実を教えてくれる母子の物語。
過去の悲惨な体験から学び、戦争の悲惨さを後世に
受け継ぐことの大切さについて改めて考えさせられます。