文化大革命時代に起きた集団人食いの事実…
毛沢東は史上最悪の殺人鬼だった…
悲惨な戦争の現実として知られているアウシュビッツ収容所での集団虐殺。
しかし、これよりもさらに残虐な集団人食いが中国の文化大革命時代に起きた。
今回は文化大革命時代に起きた集団人食いの事実を紹介します。
文化大革命時代とは
文化大革命とは1966年から1977年まで続いた
中華人民共和国の改革運動のこと。
1950年代の大躍進をめぐる路線の対立がその胎動期とされ、
絶対に階級と階級闘争を忘れてはならないという
1962年の毛沢東指示が出発点と言われています。
修正主義・市場解放勢力の反動に対する修正運動となっているが、
実体は大躍進政策の大失敗により
2000万以上(2000万~4300万と言われる)の餓死者を出し、
国家主席を辞任せざるを得なかった毛沢東が
権力回復の為に起こした政治闘争です。
この間、中国は混乱と混迷を極め、内戦状態の様相を呈した。
地方でも多くの人間が反動分子として処刑され、
その犠牲者は最も控えめな説でも2000万人といわれているが、
実際の数ははっきりしない。
大躍進政策での失敗による犠牲者も含むと
総計7000万人に達するという推計もある。
文化大革命時代に起きた集団人食い
文化大革命の狂乱のさなかに恐ろしい人肉宴席の犠牲となった人々がいた。
しかし、文革開始から50年を迎えた中国共産党は
当時の回想も文革そのものや残虐行為についての歴史的評価も
包み隠そうと躍起になっている。
1980年代はじめ、党内開明派とされる当時の故・胡耀邦総書記、
故・習仲勲中央書記処書記(習近平国家主席の父)は
広西省での文化大革命中の迫害実態を調べるため、
現地の幹部約10万人を動員して5年間調査を行った。
調査結果を収めた内部の機密資料は非正常な死を遂げた人の数は約8.6万~15万人、
人食いされた被害者は名前が分かるだけで302人に上ると記述していた。
いっぽう、各方面の証言によれば、実際の被害者は遥かに多い。
当時の党中央調査チームのメンバー、晏楽斌氏はのちに文章で
同26の県・市以外の3つの県でも人食いが起きたと告発した。
「10年間の惨劇の中、広西チワン族自治区では無数の人々が命を落としたのみならず、
ぞっとするような残酷行為と悪意が吹き荒れた」
この調査団の元メンバーは未公表のままの報告書草案にこう書いている。
「首切りや殴打、生き埋め、石打ち、水責め、釜ゆで
集団虐殺、内臓の抜き出し、心臓や肝臓、性器の切り取り、
肉のそぎ落とし、ダイナマイトでの爆破など、あらゆる方法が使われた」
とあった。
被害者のほとんどは党の敵対分子とされる知識人や地主だった。
公開処刑で内臓や肉が切り分けられた。
傍観者・食人者の大半は一般市民。
前出の鄭儀氏は万人食人運動だと形容した。
当時、町中に血の付いた棍棒や石が散乱し、
バラバラにされた遺体は随所に横たわっていた。
全ては「革命」という名のもとで行われていた。
共産主義は世界で計1億人の命を100年足らずで葬った。
共産主義政権は丸腰の市民の血と白骨によって
築き上げられたと言っても過言ではない。
毛沢東氏の大躍進政策失敗により大飢饉に
1958~61年、毛沢東国家主席の
大躍進政策の失敗により全土で大飢饉が発生。
もっとも貧困な地域・安徽省では400万人が餓死した。
同省公安庁元副庁長・尹曙生氏の証言では
政権内部の極秘統計資料によると
省内では59~61年の3年間に1289人が食べられた。
主な被害者は餓死した人、5~8%は飢餓の為瀕死状態の人だった。
安徽省亳県地名録(1984年8月出版)にこの歴史が書き残された。
「城関公社のある村民は兄夫婦が餓死後、姪を育てることにした。
姪も1960年の春に餓死したため、姪を食べた」「魏岡公社の馬という村民は父親を食べた後、残った肉を1斤15元で近隣住民に売った」
「城父公社の韓という青年は1960年春、親が餓死した後、一緒に生活していた弟を殺し食べた」
宋永毅氏は1999年一時帰国の際に
「国家機密を違法に収集」などの罪で強制収容されたが、
国際社会の圧力により半年後に釈放された。
近年になって調査団の元高官も中国国内での事件に関する認識を深めようと
改革派の中国誌に調査結果に関する記事を寄せたが、
当局によってもみ消されたという。
この高官は地元の元共産党幹部から反党、反社会主義、反毛沢東主義だと中央に告発され、
自己批判と誤りの修正、謝罪を要求されたとAFPに語った。
今、中国政府はメディアや世論の統制を強めているとこの高官は言う。
「党の権威を確立するため、世論統制を行っているのは明白だ」。
文革開始50年の節目に、党の公式行事は予定されていない。
専門家は、当時の回想によって党の正当性が損なわれるのを
指導部は恐れていると指摘している。