江戸時代の妊娠・出産がヤバすぎる…
今の時代では考えられない…
江戸時代の妊娠・出産がヤバすぎる
少子化の現代、特殊出生率
(1人の女性が障害出産する子供の人数)は
1.42に対し、江戸時代では地域差はありますが、
平均4〜5人と現在の4倍以上です。
女性の初婚年齢が20歳前後だったと考えられている江戸時代、
出産年齢は20代前半からスタートし、そこから十数年は出産を続けます。
江戸時代では高齢出産になる女性も結構いたそうです。
出産が多い理由
多産の理由として当時は医療がまだ発達していないこともあり、
乳幼児の死亡率が非常に高かったことがあげられます。
生後1年までの死亡率は20〜25%とも言われ、
4人産んだとしても1人無事に成長するかどうか。
東北の農村など寒冷地では乳幼児死亡率が高くなるため、
初婚年齢、出産年齢ともに早くなり、
出産平均人数も増えたそうです。
「3年経っても子供が生まれなければ離婚」
と言われた江戸時代。
一家繁栄に繋がる出産はとても重要。
当時は産婦人科などによる妊婦健診などはないものの、
妊娠中の心得などを書いた手引書は数多くありました。
いつの時代も妊婦さんの関心が高い胎教。
クラシック音楽を聞いたり、絵本を読み聞かせたり、声をかけたりと方法は様々。
最近出てきたイメージのある胎教ですが、
実は江戸時代にも胎教の大切さがすでに紹介されていました。
江戸時代の胎教
母親の日々の心の持ちようが胎児にとってなにより重要。
思いやりのある正直な心をもつように務め、
決してよこしまな考えを起こしてはいけない。食べ物にも十分気をつけ、日常の姿勢や動きにも気をつけ、
刺激の強すぎるものを見たり、悪影響のあるものを聞いたりせず、
聖人君子の道を説いた書物を呼んだりするのが良い。
なんだか今でも十分通用しそうですね。
現代でも妊娠中は塩分や香辛料を控えるように推奨されていますが、
江戸時代も同じだったようです。
また、すっぽんも食べてはいけなかったとか。
なんでも「すっぽんを食べると首の短い子供が生まれる」と信じられていたそうです。
江戸時代に広まった安産祈願
妊娠も順調に進み妊娠5カ月目の戌の日に行う安産祈願の儀式といえば、
現代も行われる「帯祝い」。
戌の日に行う理由は多産で安産な犬にあやかって。
妊婦さんのお腹に腹帯を巻き安産を願う儀式で、
なんでも平安時代にはすでにあったといわれ、
江戸時代後期には広く庶民も行うようになりました。
妊婦に腹帯を巻く帯親を務めるのは多産な親戚の女性の役割だったそう。
妊娠も5カ月目に入ると流産の危険性も減るため、
この「帯祝い」には周囲に妊娠したことを公表するという意味もありました。
座ったまま出産するのが当たりまえ!?
江戸時代の妊婦さんは出産が近くなると
家の外に設けられた産屋や納屋
もしくは家の土間や納戸に隔離されました。
なぜ妊婦を隔離!?と思うかもしれませんが、
それは出血を穢れと考える産の忌みという概念があったためです。
出産は喜びにあふれためでたい出来事である一方、
大量の出血をともなうので忌むべき穢れともとらえられていたわけです。
「血の穢れが火を通して移る」と考えられていたため、
毎食の煮炊きも家族とは別にされました。
ついに出産という時ですが、夫は立ち会いません。
それだけではなくなんと医者さえもこの場におらず、
場を仕切るのは妊婦の母親や姑、近所の出産に慣れた女性たちでした。
江戸時代ものちになると、取り上げ婆と呼ばれる
今でいうところの助産師が出産のプロとして出産の介助をしました。
お手伝いにはやはり近所の出産経験者が集まりみんなで力を合わせ出産という一大事に臨みました。
また、江戸時代の分娩ですが、
現代のように寝るではなくしゃがんだままの姿勢で産むのが一般的でした。
産屋には天井から縄がぶら下がっており、
妊婦はそれをつかんで座り、いきむのです。
ずっと同じ姿勢をつづけるのは辛いため、
周りの女性たちが体を支えてやったり、
壁に布団を立てて背もたれにすることもありました。
出産を終えても眠ることさえ出来ない?
出産は医療の発達した現代でも命がけですが、
江戸時代は難産などで出産時や出産後に死亡する女性も多くいました。
無事に出産を終えてもそこからが大変です。
産後はNGな食べ物が多く、
エネルギーを使い切った産婦が口にするのは
主にお粥と鰹節だったそうです。
さらに、出産を終えた女性が上半身を起こします。
「頭に血がのぼっては大変」という理由で
産後、最低7日間は横になることはできず
上半身を起こした姿勢のままでした。
その7日間は眠ってはいけないとされ
力尽きた産婦がウトウトしようものなら
付き人の女性が頻繁に話しかけたり
どうしても限界の時は気付け薬を使ったといわれています。
へその緒はどうしていたかというと現代と同様に大切に保管されていたとか。
俳聖・松尾芭蕉の句にも「旧里(ふるさと)や へその緒に泣く 年の暮」(1687年)というのがあります。
「年の暮れに久しぶりに故郷へ帰ったとき、自分のへその緒をふと手に取ると父母のことが思い出されて泣いてしまった」
というような意味です。
へその緒は薬にもなると信じられていました。
さらに、体内から排出された胎盤などは土に埋めるのが一般的でした。
それは父親の役目で便所の前や産室の床下などに穴を掘って埋めました。
胎盤を埋めた場所を最初にまたいだ人のことを赤ん坊が嫌う、
という迷信があり大人はまたがないように気をつけたと言われています。
帝王切開の第1回目は江戸時代
現在、逆子や前置胎盤など自然分娩が困難な場合、
帝王切開による出産が行われます。
日本で最初に帝王切開が行われたのは、1852年。
いまから160年以上前、ペリーによる黒船来航あたりです。
残念なことに胎児は死亡してしまいましたが母親は88歳まで生きたとか。
円形にした鯨のヒゲを胎児のあごにひっかけて出しているのです。
これは当時の最先端産科術で難産時の救命率が上がったといわれます。
それ以前は、逆子など難産の場合、
妊婦の命を助けるのがやっとで胎児はあきらめるしかなかったのです。
医学の発展はホントに素晴らしいですね。
子供の成長を祈って
江戸時代のころには乳幼児の死亡率が極めて高かったため、
親はいつでも子どもを亡くす覚悟を持っていたようです。
7つまでは神の子とも言われ、
7才まで生きられるかどうかは運命にゆだねられると考えられていました。
江戸時代以前の平均寿命が短かったのは乳幼児の死亡率が高いせいです。
人生50年と言われた時代ですが、
もし現代並みの乳幼児死亡率であったなら
寿命はずっと長くなっていたはずです。
産まれたわが子の名前を考えるのは心躍るものですが、
江戸時代、赤ちゃんに名前をつけるのは誕生から7日目のことでお七夜といいます。
誕生から男子なら32日目、
女子なら33日目に行う初宮参りは
現代にも続く行事で江戸時代に庶民にも広まりました。
生後100~120日目には御喰初の儀式が行われました。
これは「生涯、その子が食べ物に困らないように」
との願いを込め食事のまねごとをする儀式で
今でも行われます。
なんと平安時代から行われているそう。
出産時のリスクも乳幼児のリスクも現代より格段に高かった江戸時代、
節目節目で子どもの健やかな成長と願い、感謝しました。
元気に成長して欲しいその気持ちは時代が変わっても同じですね。