証拠の捏造で死刑となった松山事件…
逮捕された斎藤幸夫の人生が辛すぎる…


松山事件とは

1955年(昭和30年)10月18日に
宮城県志田郡松山町(現大崎市)にて発生した
放火殺人事件とそれに伴った冤罪事件。

この事件は農家の一家4人の焼死体が
発見されたのが事件の発端でした。

宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、
焼け跡からこの家に住む一家4人である家主(当時54歳)、
家主の妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)と
長男(当時6歳)の焼死体が発見され、
遺体解剖の結果、長男以外の頭部に刀傷らしきものが認められ、
殺人および放火事件として捜査本部が設置されました。

そこで逮捕されたのが
東京都板橋区に勤務していた斎藤幸夫さんでした。

斉藤さんは当時、喧嘩で傷害事件を起こしていて
示談が成立した直後でした。

それとは別件容疑で東京に勤務している事実を
家出と偽り逮捕状を請求して逮捕されました。

証拠の捏造

斎藤は警察の厳しい取調べで
自白しては撤回を繰り返していたが、
警察は強盗殺人・放火の疑いで逮捕。

警察は留置所に前科5犯のスパイを送り込み、
「警察の取調べで罪を認めても裁判で否定すればいい」
と斎藤に言って自白に追い込んでいたことが判明。

また、証拠とされた
男性の掛け布団の血痕は警察の捏造であると発覚しました。

裁判の結果

1957年10月29日、仙台地裁で死刑判決。
1959年5月26日、仙台高裁で控訴が棄却。
1960年11月1日に最高裁で上告が棄却、死刑が確定。

斎藤は無罪を訴えて再審請求を開始。

やがて第2次再審請求が認められ、
1979年12月6日に再審が認められます。

1984年7月11日、無罪判決。

斎藤さんは28年7ヶ月にも及ぶ
獄中生活に終止符を打ちました。

警察は自白を拷問によって強要していた事実などが
明るみに出されてしまい、
その権威を失墜させることになってしまった。

また、肝心の真犯人を探すための捜査は一切再開されていません。

釈放された後の生活

無罪となった斎藤は7516万8000円の
刑事補償金を受け取るも裁判費用の借金返済に消えた
(再審請求以降の裁判費用は借金ができず、
支援団体のカンパでまかなっていた)。

その後、故郷に戻り、会社に勤務しながら
アムネスティ日本支部などの団体で講演活動をしていたが、
長期間死刑囚として過ごした間の年金は支給されず、
晩年は年金に加入しておらず
生活保護で生活していたそうですが、
2006年に亡くなりました。

この冤罪事件は四大死刑冤罪事件の一つとして
取り上げられています。

四大死刑冤罪事件

免田事件

1948年12月30日午前3時頃、
熊本県人吉市で祈祷師夫婦(76歳男性・52歳女性)が殺害され、
娘二人(14歳と12歳)が重傷を負わされ、現金が盗まれた。

現場検証から犯行時刻は12月29日深夜から
翌12月30日午前3時の間とされた。

翌1949年1月13日、警察は
熊本県球磨郡免田町(現:あさぎり町)在住の
免田栄(当時23歳)を玄米を盗んだ罪で別件逮捕し、
同月16日には殺人容疑で再逮捕した。

財田川事件

1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現三豊市)の
闇米ブローカー・杉山重雄(当時63歳)が寝巻き姿のまま惨殺され、
現金1万3000円を奪われた。

発見者は買出しに来た高知の女性だったが、
この女性は事件に巻き込まれるのを恐れて逃げ出す。
財田駅前で食堂を経営している杉山の妻(別居中)にこのことを告げ、
一目散に地元へ帰っている。

島田事件

1954年3月10日。
この日、静岡県島田市の寺の境内にある幼稚園で
「おゆうぎ会」が開かれていたが、
この最中に少女(6歳)が若い男に誘い出され、
その2日後、大井川沿いの地獄沢で絞殺死体となって発見された。

その後、岐阜県内で赤堀政夫さん(当時25歳)が
逮捕され犯行を自供、60年12月に死刑が確定した。
だが赤堀さんは再審を要求、89年無罪が確定している。

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