終戦から数年後、死亡届が出ていた夫…
突然、妻の元に帰ってきたがすでに他人の妻になっており…



第二次世界大戦が勃発

祖父と祖母の話。

祖父はT県、祖母はY県のK府で生まれ育ち、
祖父は親族から将来を期待されて状況して、鉄道技師として働いていた。

祖父が行きつけの食堂で祖母が働いており、そこから結婚に至ったそうだ。

ただ、昔というのは現在と異なり、お見合い結婚が主流だったので
恋愛結婚というのは田舎では遊び人がすることだと考えられていたそうです。

なので祖父は、既に田舎で結婚相手を決められていたのですが、
その女性を裏切る形で祖母と結婚をしました。

だから祖父は実家と絶縁状態になってしまったそうです。

今ではなかなか考えられない話ですが
こういう事が本当に起きていた時代なんです。

結局のところ祖父と祖母は両親や親族の反対を振り切って一緒になった。

そして、2人の子どもが生まれ、
これから幸せな家族を築いていくというところだったのだが・・・

残念ながら、ここで第二次世界大戦が勃発してしまいました。

祖父は技師をしていたので最初は戦闘員として徴収されることはなく、
整備要員として国内に留まっていた。

でも戦況が危うくなって、
最終的には祖父も戦闘員として徴用される事になったのです。

祖父の派遣先はオーストラリア付近にあるソロモン諸島で
そこは第二次世界大戦の中でも1、2を争うほどの激戦地でした。

祖父も自分は生きて帰れないと思ったんだろう。
船が出向する前に祖母に宛てた手紙を長男の実家に保管してあるのだが、
その手紙を俺も読んだことがあるんだ。

そこには御国の為に見事命を捧げてみせるという内容か始まり、
たぶん生きて帰れないだろうから
息子二人をくれぐれもよろしく頼むという内容が書かれていた。

最後に

「女手一つで二人の子供を育てるのは厳しいだろうから、
君が好いと思う人が見つかったらその人と一緒になって下さい」

と綴ってあった。

「これからの人生の方が長いのだから、私の事に捉われる事のないように」

という内容だった。

祖父がソロモン諸島に到着した頃は既にアメリカ軍に占領されていたので
祖父たちは奪還作戦に参加することになった。

しかし、物資輸送船が撃沈され、完全に孤立無援状態となった。

そのおかげで餓死する人が出てきて
銃弾もつきかけて、ジリ貧状態に追い込まれていった。

当時その作戦に参加した兵隊の9割が戦死ではなく餓死か疫病死だったそうです。
祖父の部隊も多分に漏れず、
何もできないまま全員餓死する寸前になっていたみたいです。

部隊長が自決するか、米陣営に突っ込んで総員玉砕か、
どっちが良いか多数決で決めようといったそうで、
「どうせ死ぬなら一人でもアメ公殺して死のう」って事になったようです。

そして、夜遅くにジャングルの中からアメリカ軍の陣営に飛び出していき、
残った弾薬すべてを使い果たそうという事になったのです。

そして計画通りに、決行をします。
ワ~!っと威勢よく飛び出していったもののアメリカ軍もバカではありません。

最初から来るのがわかってて集中砲火されて全員が玉砕したそうです。
祖父も砲弾に吹き飛ばされてそのまま意識を失いました。

明け方になり祖父が目覚めるとそこには誰もいなくなっていたとか。
死んでいると思われて放置されたのか、
それとも大量の砂塵をかぶっていたので気づいてもらえなかったのかもしれません。

祖父はこの砲撃により、右目の視力と聴力を失って頭部にも大きな裂傷を負った。
祖父は瀕死の重傷を負いながらも食料を分けてもらっていた
原住民のところに逃げ込み、難を逃れたのだった。

祖父はもともとインド人のような堀の深い顔をしていたので
原住民に成りすましてしばらくそこで暮らしていてもばれなかったようです。

そんなことをしていると終戦が決まり祖父も祖国に帰れるはずだったのですが、
完全に洗脳されているので米軍につかまるくらいなら、
自決せよという絶対命令に縛られ続け、投降できなかったようです。

ただ、何となく戦争が終わったということは気づいていたので
1年くらいして原住民を装ってマレーシア行きの貨物船に乗せてもらう事になりました。
しかし、マレーシアって東南アジアの中でも華僑が多い国なので
ますます日本人だと言えなくなってしまったのです。

そのまま祖父はサモア系のふりをして荷下ろしの仕事を手伝っている内に
2~3年の月日が経ってしまったそうです。

終戦から数年後、死亡届が出ていた夫

一方、祖母は祖父が戦死したと思い込んでいました。
食堂で働き始めていたのですが、
息子2人をそれだけで育てていけるわけがありません。

実家に帰ることも考えたのだが、
男兄弟が疎開してそのまま住んでいたので
祖母が帰っても食べさせてもらえるような状況ではありませんでした。

祖母が困っていたときにその界隈の世話役みたいな人が来て
祖母を

『嫁に貰っても良いと言ってる人が居るんだけどどうだ』

という話があったそうです。

子供二人も引き受けるというので
そんな良縁めったにないけど?と祖母は迫られました。

写真で見る限り祖母は美人だったので子どもがいても貰い手があったのです。
祖父の遺言では、息子をくれぐれも頼むと言われていましたので
学校に行かせてやりたいと思い、祖母はその縁談を受け入れることにしました。

仮にその相手を義祖父という事にします。

義祖父は先天的に右足が不自由だったので兵役を逃れる事ができたそうです。
呉服屋の倅で幸い店も焼けずに残っていたので稼ぎもそこそこありました。

なので、息子2人も食うに困らずに生活することができました。
そういった意味で言えば祖母の選択は間違っていなかったんだなと思います。

しかし、祖母が義祖父との間に一児をもうけたのだが、
その後に祖父が大陸から密航という形で帰って来たのです。

町の誰かが祖父を発見して世話役のところに飛び込んできたそうです。

「大変だ!祖父男さん戻ってきちゃったよ!」

って、もう町中が大騒ぎ!

「幽霊じゃないのか?」
「だって死亡通知が来たのに何で!」

とか騒ぎだてる町中の人たち。

俺の親父(祖父母の次男)は覚えてないそうだが、
長男がそのときのことを覚えているそうで
幼いながらどうなるのか凄くドキドキしていたそうです。

祖父は世話役の家に通され、そこで戦場での事の成り行きを話したそうです。

世話役も、自分が祖母の再婚を勧めた手前、
なかなかその話を切り出すことができなかったそうです。

結局、祖父が事情を知ったのは祖母が乳児(三男)を抱いて現れたときでした。

祖母は泣くでも悲しむでもなく、
ただ淡々と「ご苦労様でした」と一言!そして頭を深々と下げました。

祖父も動揺することなく

「恥ずかしながら死に切れずおめおめと帰って参りました!」

といい、祖母に敬礼をしたそうです。

長男はそのときの二人を凄く不思議に感じたと
俺に話してくれたことがあります。

「普通ならお袋(祖母)は泣いてしかるべきだし、
親父(祖父)は怒ってしかるべきだろう」

って思ったそうです。

「命懸けて戦ってきたのに、これかよ!って普通は思うよな?」

と、長男(俺のおじさん)は言ってた。

でも祖父は瞬時に状況を飲み込んで、受け入れたみたいだった。
次男と長男を祖父は大きくなったなと言って抱き上げてくれたそうです。

しかし、祖父の顔はケロイドになってて
怖かったという印象が長男と次男には残ったそうです。

そのあと、義祖父も来て世話役の家で宴会になったそうです。

世話役は祖父が怒らない姿を見て大変気に入ったそうで
働き口がなければ任せろと言ってくれたそうですが、
祖父はもう一度鉄道技師の働き口を探すからと言って断ったそうです。

長男は祖父と義祖父が意気投合して酒を酌み交わしてるのをみて
子供ながらに心底ホッとしたと感じたそうです。

書き置きを残して妻の前から姿を消す

でも結局祖父はその夜、
書置きだけ残して二度と祖母の前に姿を現すことはありませんでした。

「自分が居ると要らぬ気を使わせてしまうから自分は故郷に帰ることにする。
しかし絶対に私の事を気に病んでくれるな、君の選択は正しい。
義祖父さん、くれぐれも元妻と子供をよろしく頼みます」

そんなことが書かれていたそうです。
祖母はその後、義祖父との間に二人の子をもうけました。
つまり上の二人が祖父の子で下三人が義祖父の子で
計五人兄弟になったということです。

それから暫くして東京で嫁いでいた祖母のお姉さんが尋ねてきて
上野の高架下で祖父に似た浮浪者がいたので
声を掛けたら逃げられたと話してきたそうです。

顔に裂傷を負っていたので間違いないだろうという事だった。

祖母は姉に向かって、なぜお金を渡してくれなかったのか?と責めたといいます。
祖父にだってプライドがあるのだから、
親族にそんな姿を見られたら逃げるに決まっている!と・・・

俺の親父(次男)が言うには

「片目片耳が不自由でしかも顔にケロイドじゃ働き口が無かったんだろうな」

とのことでした。

それから数年後の冬に大阪の警察から

「遺体の持ち物からあなた(祖母)の名前が入った写真が
見つかったんだけど心当たりがありませんか?」

と連絡があった。
ちょうど、署員の知人で写真に映った場所の周辺に住んでる人が居たので
わざわざ探してくれたそうです。

祖母は長男と一緒に汽車に乗って大阪まで行き、
遺体を確認したそうです。

その遺体はもちろん祖父で死因は窒息死だった。

真冬の寒さと衰弱が原因で食べ物が喉をうまく通らずに
窒息してしまったのだと考えられていました。

長男は翌日の汽車で帰って来たのですが、
祖母はそのまま残り、遺体を焼いてもらって
遺骨を親族に渡してから帰ってきたそうです。

長男は、その時も涙を見せない祖母を見て、
『何て冷酷な人だ』と思ったそうです。

一方、義祖父は酒飲みである事を除けば、
子どもを公平に扱っていたし、よく寄席や相撲に連れていってくれたりして
血が繋がっていなくても分け隔てなく平等に可愛がってくれたとそうです。

実を言うと俺も、義祖父に寄席に連れていってもらったり
将棋を指したりした記憶があります。

とても人懐こいタイプだったので人望もあったし、
町内会でも顔役として自治会長を引き受けたりしていたみたいです。
ただ問題なのは義祖父が息を引き取ってからだった。

義祖父には姉が一人いるのだが、姉の旦那は戦死しています。
子供もいなかったので祖母と同じように再婚の話がありそうなものだが、
何故だかそういう話はなかったそうです。

俺の親父の話によると姉は多分不妊症だったんじゃないかと。

だから貰い手がなかったんだろうと考えているそうです。
それで義祖父の姉が自分の遺産を下の三人、
つまり自分の弟と血の繋がっている三人の義祖父の子どもに少しずつ渡しだしたのだ。
血の繋がってない長男と俺の親父(次男)には内緒で。

それで祖母が激怒して

「私が嫁に行くとき公平に扱ってくれるという約束だったはず」

と抗議をしたのです。

しかし、姉は

「私の遺産をどうしようが私の勝手だ」

と突っぱねてきたそうです。
そこからは上の2人と下の3人の子どもたちがギクシャクするようになった。

義祖父が他界してから暫くして三男夫婦が事業に成功した。

それで金銭的に余裕があるからといって
自分達が祖母の面倒を見ると言い、長男と次男には何も相談なく、
同居をしてしまったのでますます関係は最悪になっていた。

おかげで長男と次男(俺の親父)は『俺達は捨て子みたいなもんだ』って不貞腐れており、
祖母にまで怒りをぶつけるようになってしまった。
そこからの険悪なムードというのは、俺も鮮明に覚えている。

わざわざ祖父の本家まで尋ねていき、
事情を話してまだ辛うじて健在だった祖父の弟と養子縁組をして、
義祖父の姓を抜いたのです。

だから俺まで名前変わっちゃったんだよね。

本家も

「だから言わないこっちゃないって!元々祖母は変な女だと思ってたんだ」

と哀れんでくれたようで
縁組までの経過は実にスムーズだったそうです。

ただ

「遺骨はこっちで引き取ってないよ」

って言われたそうです。
祖母とも険悪になってしまったので、
何も事情を聴くことがないまま月日だけが過ぎていきました。

祖母が老化で足腰が弱くなって寝たきりになり、
三男から長男に

「お袋が最後はそっちで面倒みて貰いたいと言ってるんだけどどうか」

と連絡が来た。

長男は一番手がかかる状態になって厄介払いされたんだろうと思っていたのですが、
拒否するのも癪だから引き受けたそうです。

祖母は長男の家に引き取られ、次男(親父)を呼んでくれと頼みました。
ボケる前に言っておきたいと前置をして、こう語り始めたのだ。

「公平にするという祖父との約束を果たせなかった事は本当に申し訳なく思っている。
下の三人に和解するよう何度も説得を試みたが叶わなかった。

自分の力不足を痛感してる。
しかし下の三人も自分が産み落とした子だから分け隔てすることが出来なかった。
だから足腰が丈夫な内は三男に世話になることにして
最後は二人(親父と長男)に看取ってもらいたいと思っていた。
そして四谷のお寺に祖父の墓を立ててある。

自分が亡くなったら分骨して半分はそこに埋葬してほしい。
隣に二人の土地も買ってあるから自分で墓石を立てなさい。
しかし自分と祖父の墓には他の人の骨は入れないで欲しい。

墓碑にも他の人の名前は絶対に刻まないで欲しい。
墓石代と墓守代として一千万用意してあるから二人で分けて使いなさい。」

実の母親から裏切られたと思っていた長男はそれ聞いて号泣しました。

それから半年も経たないうちに祖母は亡くなりました。

結局その一千万は下の三人の知るところとなってしまったので
没後弁護士をたてられて綺麗に五分割されてしまいました。

しかし、親父も長男も不思議とその件について怒ってる様子はありませんでした。

先日、親父と墓参りに行ってきた。

親父こう言っていた。

「お袋はしょうがないっていうのが口癖だったけど
ずっと自分にそう言い聞かせながら生きてきたのかもしれないなぁ」

その言葉を聞いて感慨深くなってしまい、
不覚にも泣いてしまった。

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