被害者の遺族からも「死刑をやめて」と言われる
愛される死刑囚の素顔…




宮崎刑務所の面会室でこう語ったのは

「”あの時”に時間を戻せたらいいのにということはいつも思います。
ただ、もしも”あの時”に戻れるとしても今の自分で戻りたいです。
自分まで当時の自分に戻ったら、
また同じことを繰り返してしまいそうだからです」

2010年に宮崎地裁の裁判員裁判によって『死刑判決』を受け、
この当時最高裁に上告をしている途中だった奥本章寛27歳でした。

奥本が口にした『あの時』というのは
自分の手で家族3人の命を奪った時のことです・・・

「宮崎家族3人殺害事件」について

2010年3月1日の早朝5時のことだった。

奥本は宮崎市にある自宅で
生後5か月の長男を浴槽の水に沈めて溺死させ、
24歳の妻と50歳の義母をハンマーで撲殺しました。

そしてそのままいつも通り会社に出勤をして、
夜9時ごろになり自宅近くにある
会社の資材置き場に長男の遺体を埋めた。

そして第一発見者を装って警察に通報したのだが、
その犯行はすぐにバレてしまい奥本は逮捕されたのだった。

裁判ではすでに『死刑判決』が下されており確定となって
現在は福岡拘置所に収容されています。

さて、この事件の概略だけを聞いていると
奥本が死刑になるのは当然だという印象を持つ人がほとんどでしょう。

しかし、奥本は多くの人から愛されている存在であり、
死刑ではなく『生きて償う事』を望まれている死刑囚なのです。

裁判中には奥本の支援者たちが集めた
原型の嘆願書が6000筆を超えており、
さらには『被害者の遺族』までもが最高裁に対して
裁判のやり直しを求める上告所を提出しています。

なぜ奥本がここまで多くの人に支援されているのか??

奥本と義母の関係に問題が

奥本は福岡県豊前市の山間にある街で育ち、
小中高と剣道部でキャプテンを務めており、
とても人当りがよくて地元では誰からも愛される存在でした。

高校を卒業した奥本は自衛隊に入隊し、
勤務地である宮崎で知り合った妻と結婚をしたのです。

そして結婚をキッカケにしてあまり水の合わない自衛隊を辞めて、
土木関係の会社に転職をしたのですが、
奥本の真面目な仕事ぶりは社長からも大きな信頼を得ていました。

結婚からほどなくして長男が誕生し、
一見するととても幸せそうな新婚夫婦といった印象があります。

しかし、奥本は毎日とても苦しんでいたのです。
それは同居していた妻の母、
つまり奥本の義母の存在にありました。

義母は奥本が結婚する時に自衛隊を辞めたこと
結納・挙式をしなかった事に対して強い不満を抱き続けていた。

そして義母は事あるごとに

「自衛隊を辞めた時からあんたは気に食わん」
「結納も結婚式もしなかった」

と奥本に言っていたのです。

奥本の実家からは野菜やお米などをよく送ってくれていたのに
義母は「お前の家族は何もしてくれん」と言って、
奥本の両親が福岡からやってきた時も
家にあげるのを嫌がっていたそうです。

母の仕打ちに対して奥本は忍耐強い性格なので
とにかく我慢をし続けていた。

ただ、義母と衝突しないようにという事で
当時は会社が終わってからも車の中で過ごして、
夜の10~11時に帰宅するという生活に陥っていった。

土木作業員なので朝は4~5時から現場にでなければならないので
奥本の睡眠時間はとても短くなり、心身共に疲弊していったのだ。

そしてあの事件の6日前に事態が最悪の方向に進んでいった。

「被害者遺族」が謝りたいというほど・・・

長男の初節句が迫り、
福岡と宮崎のどちらでやるかとめぐって、
義母が奥本の実家の両親と対立をしたのだ。

ここで感情が高ぶった義母は奥本の頭を何度も殴りつけてきたという。
そして挙句の果てに・・・

「部落に帰れ。これだから部落の人間は」
「離婚したければ離婚しなさい。慰謝料ガッツリ取ってやる」

義母は奥本のことを殴りながら、
このような言葉で罵倒していったのでした。

奥本はここで緊張の糸が切れてしまい、
最初は自殺することを考えたのだが、
最終的に家族3人を全員殺害するという決断に至った。

なぜそうすることで解決すると思えたのか、
奥本本人もよく分かっていないという。

心理鑑定によれば当時の奥本は
『精神的に疲弊しており、視野狭窄、意識狭窄』
という状態に追い込まれていたという。

そしてついにあの時がやってきたのです。

奥本:「心理鑑定の鑑定書は読みましたが、
鑑定書の通りだと思いました。
自分は元々視野などが狭かったと思いますが、
“あの時”はいつも以上に視野狭窄になっていたと思います。
すべての原因は自分にありました」

面会室で奥本は当時のことを振り返っていた。

さて、この事件の原因が奥本だけにあると思えない人が、
被害者遺族の中に存在した。

それは殺害された妻の弟、つまり奥本の義理の弟です。

弟さんをAとしよう。
Aは自分の母の性格や日頃からの言動などについて、
もちろんよく知っている。

上告審の段階になり、Aは奥本と面会をして最高裁に
『裁判のやり直し』を求める上申書を提出している。

その上申書にはこのようなAの言葉が綴られていた。

〈母のほうが悪かった部分については
自分のほうから被告奥本に謝りたいという思いもあったくらいです〉

しかし、奥本の上告は棄却された。
最高裁の出したたった3枚の判決文には
Aの上申書の存在については一切触れられていなかった。

奥本の決意「最後までしぶとく生きる」

奥本は田舎で育った人の良い青年といった印象だった。

獄中では、被害者の供養の為に
写経・読経などを日課にしているという。

それから、被害者の遺族への弁償資金を作るために
支援者たちの協力を得てポストカードを制作して、
そのカードの為のイラストを毎日描いているそうだ。

奥本:「絵は、被害者3人のことを思いながら描いています。
とくに妻と息子のことを想って、
心の琴線に触れたものを2人に重ねながら描いています」

こんな風に語っていた奥本だが、
最高裁から上告を棄却された直後にはこんなことを想ったそうだ。

「この結果(死刑)を潔く受け入れて死のう」

ただ、最終的には再審の請求や恩赦の出願をすることに決め、
生き続けることを意識しているという。

支援者たちも生きて償ってほしいと思っている、
被害者の遺族までもがそう思っているという異例の事態。

奥本自身もその想いを受け、
自分のやったことへの償いを一生かけて
続けていきたいと思っているのだろう。

しかし、死刑が確定してから
奥本と面会や手紙のやりとりなどはできなくなった。

最後に奥本が出した手紙には彼の真意が綴られていた。

〈私が今、考えていること(再審や恩赦)はまったく潔くありませんが、
間違っていないと思っています。

私は被害者3人の命をある日突然奪ったのですから、
私が死ぬ心の準備をするのはおかしいです。

私も死ぬ時は死ぬつもりがまったくない状態で死ぬべきです。
最後までしぶとく生きるつもりです〉

これから奥本はどのような人生を歩んでいくことのでしょうか。

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